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その一 堀川(ほりかわ)

◇概要

平安時代、朱雀大路を中心に左右対称の位置に、「西の堀川」(西堀川)と「東の堀川」(東堀川)という二つの堀川があった。 西の堀川は、現在の天神川(紙屋川)付近を南北に流れ紙屋川より水を引き入れていた。何度も氾濫を起こし、その都度、修復を繰り返していた。その後、西の堀川の流路が変わり、平安時代中期には廃れた。 やがて、東の堀川が堀川と呼ばれるようになり、中世以後も運河として利用された。 平安時代、堀川の両側に、ほぼ同じ幅の道が通じていた。この堀川小路には、高陽院、冷泉院、堀河院などの大邸宅が建ち並び、邸内に堀川の水を引き入れていた。
堀川は、川幅が8丈あり平安時代以来、材木の輸送に使われていた。西国の材は、丹波から淀川を経て堀川を上った。鎌倉時代の『一遍上人絵伝』には、七条堀川に材木市が描かれている。室町時代、材木を扱う商人は堀川材木座を組み、堀川は材木の集散地になる。江戸時代初期の『洛中洛外図』にも堀川沿いに材木屋が描かれている。祇園社に属した堀川神人が貯木場を管理していた。これは、平安時代の879年に堀川12町の流れを祇園社に寄進して以来のことで、祇園御霊会の際には、神輿が鴨川渡河するための浮橋を寄進し、架橋する慣わしになっていた。

◇堀川源流

堀川は北西の尺八池よりの若狭川、北東の賀茂川から南下したニ流は、大徳寺付近で合流し境内東の端を南へ流れ小川(こかわ)を経て堀川に繋がっていた。 平安時代には、鴨川から取水し再び鴨川に注いでいたという。

◇橋

戻橋の一つ下流にかかる「堀川第一橋(中立売橋)」の架橋は、江戸時代初期ともいわれている。公儀橋であり御所と二条城を結んでいた。聚楽第への行幸路として「御成橋」ともいわれた。下立売通の堀川第二橋と対になっており、鶴橋、亀橋とも呼ばれる。近代1873年に京都府により石橋に架け替えられている。石造、アーチ橋であり長さ15m、幅9mのほぼ円形になっている。

堀川牛蒡

京野菜のひとつ堀川牛蒡(ほりかわごぼう)は、豊臣秀吉の聚楽第築造、解体の際に堀川通に近いかつての堀が芥で埋められた。その中から発見された新種の大きなごぼうが起源といわれている。ごぼうの中心部には”す”が入っており、ここに鴨肉や野菜を詰めて煮る。

◇発掘

2007年、旧城巽中(中京区)の発掘調査により、安土・桃山時代後期から江戸時代初期の舟入落ち込みの遺構が発見された。聚楽第造営にともない、1583年-1587年、本拠地となった妙顕寺城の東隣にあった堀川の水運を利用し、材木が集積された。聚楽第か大名屋敷の造営にも、資材の輸送に堀川の水運が利用された可能性も出てきた。

◇堀川整備

現在、堀川は堀川通の東の堀川今出川と二条城南などが地表部に見えている。川の水は1953年に疏水からの流水が断たれて以来枯渇していた。 この堀川に、水を再び流す計画「堀川水辺環境整備事業」では、第二疏水分線を水源とし、今出川通から御池通までの開渠部にせせらぎを復活させ、堀川に再び水を引き入れる。さらに、堀川の水の一部を二条城の外濠に引いて、濠の水質浄化を図るとともに京都府の進める西高瀬川整備事業と連携させ二条城外濠の水を西高瀬川へ流すという。 これらにより、市内中心部に水と緑のネットワークが形成され都市防災対策、消防水利施設の整備、雨天時に下水が河川に流入しない分流式の下水道整備も行なわれるという。

◇有栖川 

京都には3つの「有栖川(ありすがわ、斎川)」が流れていたという。賀茂、紫野、嵯峨になる。『山州名跡志』堀川の一条戻橋の上流には、若狭川(有栖川)があり、大徳寺東の小川(紫野の有栖川)に通じていたという。

◇文学

堀川界隈を舞台にした沢野久雄(1912-1992)の小説『夜の河』では、染物屋「丸由」の長女舟木紀和が主人公の不倫愛を描いている。 1922年、永井荷風(1879-1959)は京都を訪れ、京都各所、堀川の樹木について書いた。「堀川の岸に並び立つ柳の老木は京都固有の薄暗い人家の戸口に落葉の雨を降らせていた。」(『十年振』)

その二 蛸薬師如来の由来

◇概要

後深草天皇の御世、建長(1249~1256年)の初めの頃善光と言う僧がこの寺に住しておりました。 ある時、母が病気になり寺に迎えて看病していましたが、一向に病はよくなりませんでした。 母は「子供の頃から好物だった蛸を食すれば病が治るかもしれない。」と善光に告げました。 しかし、善光は僧侶の身で、蛸を買いに行くことを躊躇しておりましたが、病弱な母のことを思うといてもたってもいられず箱をかかえて市場に出かけ、蛸を買って帰りました。

これを見た町の人々は僧侶が生魚を買った事に不審を抱き、善光のあとをつけて寺の門前で、箱の中を見せるようにと彼を責めました。 善光は断ることも出来ず、一心に薬師如来様に祈り「この蛸は、私の母の病気がよくなるようにと買ったものです。どうぞ、この難を助け下さい。箱を開けると蛸はたちまち八足を変じて八軸の経巻となり霊光を四方に照らしました。 この光景を見た人々は皆合掌し、南無薬師如来と称えると不思議なことに、この経巻が再び蛸になり、門前にあった池(今の御池通の由来となった御池)に入り、瑠璃光を放って善光の母を照らすと、病気はたちまち回復しました。 それ以来、蛸薬師堂の蛸薬師如来様と称されるようになり、この地で病気平癒を祈れば、身体の病だけでなく心の病もたちまち回復し、子を望めば生じ、財を願えば叶い、嘉吉元年(1441年)に、後花園院の天聴に達し勅願寺となりました。

蛸薬師堂は、正式な名前を「浄瑠璃山 林秀院 永福寺」と言い、元は二条室町にありました。 養和元年(1181年)安徳天皇の御世、室町に一人の富者がおり、髪を落とし林秀と号していました。 比叡山の根本中堂の薬師如来様を深く信仰しており、比叡山までの月参りを長年にわたって行っておりました。  老年になったある日、薬師如来様の仏前で、「私も、年老いて年来の月参りも出来なくなります。 どうか薬師如来様のお姿を一体お与え下さい。」と祈願いたしました。

◇永福寺の由来 

その夜、夢枕に薬師如来様が現れ、お告げになられました。 「昔、伝教大師(最澄)が、私の姿を石に彫り、比叡山に埋めている。これを持ち帰るがよい。」 林秀は大喜びし、翌日薬師如来様の示された所を掘ると、瑞光赫々とした立派な石の御尊像を得る事が出来ました。 この尊像を持ち帰り、六間四面のお堂を建立し永福寺と名付けましたのが、蛸薬師堂の始まりです。 以来、利生盛んで、たくさんの 老若男女が参詣し門前も栄えた ということです。

 その三 中山神社

中山神社は、「岩上町」という町名からもわかるように「石神(いわがみ)(岩上)神社」とも呼ばれていて、元々は境内に「岩神(岩神祠・岩上神社)」を祀っていた神社でした。中山神社の祭神は、主神として審素戔鳴尊(すさのおのみこと)を、また朝夕に内裏の門を守護すると言う櫛石窓神(くしいわまどのかみ)と豊石窓神(とよいわまどのかみ)の二神を配祀しています。神社の創建は、平安時代の初め延暦十三年(794)、桓武天皇の勅命により建立されたと伝えられ、嵯峨天皇の後院(ごいん 退位後の御所)冷泉院(れいぜいいん)の鎮守社だったと伝えられます。

冷泉院は、平安前期の弘仁年間(810~24)嵯峨天皇が平安宮の東隣に創建した離宮で、嵯峨天皇の譲位後は後院(上皇の御所)として使用されました。嵯峨上皇は承和元年(834)に大覚寺の元となった嵯峨院へと移りますが、その後も代々天皇の離宮・後院として利用されました。その後、四度の火災に遭って再建を繰り返しますが、天喜三年(1053)に破却されました。

尚、元々は「冷然院」でしたが、天暦三年(949)の火災後の再建の際、「然」が燃えるという意味に通じることから「泉」に改められました。(冷泉院は現在の二条城の東北一帯に位置し、二条城の北、中京区竹屋町通堀川西入に跡地を示す石標があります。)

天喜三年(1053)に破却された後の冷泉院跡地については不祥ですが、「岩神(岩神祠・岩上神社)」を採り上げた時に書いたように、鎮守社は、冷泉院の南、二条堀川付近(二条城の南 二条通猪熊)付近にあったようです。そして、慶長七年(1602)の徳川家康による二条城築城の際に、社殿は岩上通六角下る(現・中京区岩上町)へ移築したと伝えられます。

移転後、天明八年(1788)の大火により焼失し、現在の社殿はその後再建されたといわれています。また、現在の狭い社地には、本殿左には末社の清久稲荷神社があります。

最後に、現在地への移転後、近代になって「石神(いわがみ)(岩上)」神社が、「中山神社」とも呼ばれるようになったのは、この地が鎌倉時代の内大臣・中山忠親(なかやまただちか)の邸跡だったことに由来するようです。

中山家は、藤原北家の流れを汲む花山院家の庶流で、中山忠親(1131~95)は、平安末期から鎌倉初期の公卿で中山内大臣(内府)と呼ばれていました。忠親が歴史的に注目されるのは、その日記「山槐記」が源平時代の重要資料になっているからで、平家物語や源平盛衰記などの軍記物語とは異なる記述があり、史実とフィクションの違いを窺わせます。

現在、神社の鳥居横には、中山内府邸の跡を示す石標があります。

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